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佐伯の文化を高める

熊凝(くまごおり)の死を悼んで
詠んだ万葉歌が八首のこされている。
何れも (旧)佐伯郡(現廿日市市)を詠んだもの。

地元には、条里制遺跡も認められているし
今後の調査によっては「駅家の遺跡」も発掘されるかも知れない。

故・永尾幹三郎翁は「天堂通信」の最後に
関心の深い地元有志そしてご縁の方を中心に

「佐伯町高庭(駅家)研究会」また
「佐伯の文化を高める会」などを結成して

町のそして廿日市市の文化発展を講じてもらいたい。
と述べている。

今年も1274年目の7月29日は近い
7/24(日)には「天堂知足の碑」を尋ねることにしている。
author:yuikoubou, category:佐伯文化, 14:23
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魂しいの立ちあらわれるとき
 青年
大伴熊凝は死を前にうわ言のように語ったと言う。

「伝え聞くところでは
『この世の身は滅びやすく、命は泡のように消え、はかない』

聖人も、賢人も今はこの世にいない。
ましてこの凡愚、どうして死をまぬがれようか。

あが身は惜しくはないが、毎日わたしの帰るを待ちて、
こころを痛めている両親がある。
あが身の死を知れば、きっと目がつぶれるほど泣くだろう。

哀しきかな、あが父よ!
痛ましきかな、あが母よ!
あが身は惜しくはないが、

両親の苦しむことのみが、悲しい!」


 湊 徹彦 著 万葉集・現代詩訳より
http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfaks108/mm245.htm


 山上憶良は熊凝の死を伝え聴いて
弔う歌を六首詠んでいる。(万葉集に集録)
その内の一つを紹介しよう

「出でてゆきし 日を数へつつ 今日今日と 
吾(あ)を待たすらむ 父母らはも」


はるか過ぎ去った過去であっても、
その場その空間に、目に見えなくても、色あり香りあり、
いつの世にか形あるものとして

”魂しいの立ちあらわれる”ときがくるのであろう

。。。。。。。。

重たくなってしまいました。
一息、心呼吸

すでに深夜、明けて休日ゆっくりと
宮島でもを歩くことにしよう・・・。

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 00:52
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足るを知る、地を知る
" 知足 地息 地測“

足りることを知る
今住むこの地を知り、息づきを知る
今あることに生き、イマこの時を明らかにする
足元原点を知る。

イマ現実を受け入れ、
イマを知ることは、マヘ(過去)を活かし結ぶことであり
ノチ(未来)が産まれること、
古事記にいう時量師神(トキハカシノカミ)であろう。

身近な歴史を掘り起こし、その「地の徳」を知る。
原点認識から新しきものが産まれてくる。

古代の山陽道(奈良朝時代)は、
海道沿いの大野町説?
大竹から山間の玖島川沿い説か?

1.270年の時を経て、まもなく共に廿日市市。

熊凝の最期の地、
安芸国佐伯郡の「高庭駅家」はどこか?

極楽浄土の意を表す玖島の「天堂」を郷里に持たれた、
故・永尾幹三郎翁の「天堂・高庭駅家説」を
様々な角度から実証研究されている
「佐伯万葉史の研究」渓水社刊に注目したい。

あらためて、中央学会だけでなく、
土着の地道な研究者との相互交換によって、
万葉の"真史"を"トキハカシ"されることをねがう。

悲しみにくれた「18才熊凝」の顔にもきっと・・・
笑みがもとる。

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 04:47
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天堂知足の碑
知足記念写真2









昔の写真です。
(実践人・
広島読書会で)


e9b8e3b3.JPG







志し半ばで
18歳大伴熊凝(くまごうり)が病死して
今年、1.274年目

 「天堂知足之碑」を建立された
永尾幹三郎翁が他界されて四年が過ぎた。

 先日、天堂に行った折に、地元での支援者だったという
「西本義昭様」に偶然あった。
碑の上、少し山林に入ると、通称「神様屋敷」
と呼ばれる処があり、昔は小さな祠があり天堂社といった。

 「その近くで土う掘ったり、畑よぉ作るとのぉ!
あとから、皆高い熱が出てのお!!

・・・昔の人の墓があったんでしょうて」

 さらに奥には、家も人もなくて「大庭」の地名が
残っている。「大庭」とは古来から神を祭る場の
意味があるという。

 大伴熊凝を弔うため肥後の国人、又両親は
ここ天堂に来たことだろう。生前永尾翁は、話された。

 一度、地図を持って「大庭」の場所を探しに行ったが
よくわからなかった。

いつかまた、その界隈を歩いて見たいと思う。

 天堂に由来する「吾唯知足」のハンコは、これからも
彫り続ける。

*天堂・・・廿日市市玖島天堂(吉和線・玖島別レより北へ2.8k)


 
author:yuikoubou, category:佐伯文化, 13:41
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無念なればこそ・・・3
志し半ばにして
18歳大伴熊凝(くまごうり)は
「天堂知足の碑」辺り(推定)で病死す。

古代からの習いとして
非業の死を遂げた者は
丁重に弔わねばならないとされた。

当時、大和政権唯一の出先機関
九州、大宰府の役人大典の職、
熊凝の上司
麻田陽春(あさだのやす)」は
弔う歌二首を詠んでいる

それに和する歌として
筑前国守山上憶良(やまのへのおくら)は
六首を詠み、
いずれも万葉集に残る

この時代
人麻呂はじめ鎮魂の歌が多く詠まれているという。

果たせず無念の、その地には
後の世の強い力となつて
人は動かされるものかも知れない。

玖島「天堂」=天国を指す(遺教経)
「天堂」の地名は日本全国唯一
(地理学・吉田東伍資料)

熊凝の死を悼んで仏縁深き人が
「天堂」と呼んだのであろう。

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 20:58
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無念なればこそ・・・2
熊凝(くまごうり)は
村人たちの作った、薬草やオジヤを
口にすることもなく昏々と眠りに入った。

熊本の同行の者達は、交代で枕元に座り、
まんじりともしない一夜を明かした。

医者が来て、眼が覚めたら飲ますように、と
薬を置いていったが、飲むこともなく。

朝日が輝き出るころに、皆に見守られながら
今の玖島」「天堂、高庭の駅家」で
静かに息をひきとった。


紅顔の青年熊凝の姿を、
眼を細めて見送った両親!

念願だった奈良の都を見ることが叶わず!
郷里の肥後を立って、10日目の

731年6月17日(今の暦で7月29日)だった。


(永尾幹三郎著「佐伯万葉史の研究」渓水社刊)参照

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 21:35
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無念なればこそ・・・1
都を目指す大伴熊凝は
難所の一つ岩国山を周りの人に助けられながらも
やっと越えることができた

やがて安芸の国に入り平坦な道ながら、
なお元気がない。

本隊は先を急がねばならない。

荷物を持ってやり、馬に乗せてやりしながら
炎天を歩く。玖島川を辿る道を行けば
「高庭の駅家」に着く。(ここは、後の天堂)

熊凝は、ぐったりと横になった。
author:yuikoubou, category:佐伯文化, 19:00
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天堂は・・・天国
前回に続いて、「天堂知足」のこと

大伴熊凝(おおとものくまごおり)は、肥後の豪族の息子(?)だった。

永尾幹三郎翁の著書を参考に記すと・・・

731年7月7日に奈良の都で開かれる天覧相撲節会に
相撲使の従者(付き人)として抜擢され、
初めて見る都に「大伴熊凝」は胸を躍らせていた。

九州地区の相撲使、国司、従者、総勢40名(想像)は
大宰府に集合し6月11日(仮説)奈良の都に向け出発した。

奈良の都まで、当時は徒歩で上り27日と定めていた。
  (下り14日、海路30日大宰府〜奈良間)

熊凝は、周防の国防府辺りから初めての長旅で
体調がすぐれず疲れが見えはじめていた。

故郷の熊本を発って7日目、大宰府から3日目だった・・・。


 またこの次に・・・

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 11:14
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「足ることを知る」の碑
知足の碑












天堂知足の碑は、廿日市市玖島にある。
そこは「天堂」の地名である。
二十一世紀への指針として、一方
大伴熊凝」(おおとものくまごおり)の
慰霊の碑として建てられた。
建立された「永尾幹三郎翁」時に八十歳。
心の平和へのシンボルとなることを願いつつ
四年前の4月28日他界された。
92歳だった。

大伴熊凝は、731年ここ天堂にて18歳で亡くなった

この当時の山陽道は、研究者によると二説あって、
大竹から大野、廿日市の海岸説。
大竹から、大栗林、友田、廿日市市玖島、
祇園山本に至る山間説。 
永尾幹三郎翁は、山間説を取り検証推進された。
(著書・佐伯万葉史の研究・渓水社刊)

author:yuikoubou, category:佐伯文化, 21:29
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